ハナ肇とキューバン・キャッツ(ハナはじめとキューバンキャッツ)は、日本のコミックバンドである。ハナ・ハジメとキューバンキャッツとも表記されていた。当時誕生したばかりの渡辺プロダクションに所属。ハナ肇により結成され、ハナ肇とクレージーキャッツの前身となった。
概要
1954年当時、浜口庫之助は「浜口庫之助とアフロキューバノ」など子飼いのバンドを4つほど率いており、そのバンドの一つ(「浜口庫之助とアフロキューバノ」のジュニア)でドラマーとして活動していたのがハナ肇だった。同年12月末、浜口から「今月いっぱいでこのバンドは解散する」と一方的に通告されて反撥したハナは、1955年4月1日、浜口に対する仕返しの意味でバンド名をアフロキューバノから盗用し、自らのバンドを結成した。ハナ肇とキューバン・キャッツというバンド名は、新宿のお好み焼き屋「どんどん亭」でハナ自らが決めた。そのとき同席していたのは渡辺プロダクションの渡辺晋・渡辺美佐夫妻であり、晋は「同じバンドでも、これまでにないものをやってみよう。お前(ハナのこと)、おかしいんだからモダンジャズなんかやるな。ドラムだってそんなにうまくないんだから、お前のキャラクターを生かして変わったことをやったらどうだい、といってできたのがクレージーの前身、キューバン・キャッツ」と語っている。このときハナの念頭にあったのは脱線トリオのメンバー構成であった。
渡辺プロダクション社長の渡辺晋が谷啓や植木等(いずれも当時フランキー堺とシティ・スリッカーズに在籍していた)に声をかけたのは、キューバン・キャッツのレベルアップを図ってのことであったが、シティ・スリッカーズの所属プロダクションの社長から「お前ら、ここを辞めてハナのところへ行くのか。もしそんなことしたら、どこに行っても飯が食えないようにしてやる」と脅されて震え上がった植木はキューバン・キャッツへの移籍を躊躇した。一方、谷啓は「あんな奴の言う通りには、もうならない。俺は、明日から来ない」と宣言し、1956年2月1日、シティ・スリッカーズから脱退してキューバン・キャッツに加わった。結局、植木の移籍が実現したのは1957年3月1日のことであったが、その頃は既にキューバン・キャッツという名前ではなくなっており、「僕が入った時は、もう"クレージー"だったからね」と植木は語っている。
クレージーキャッツと改名した時期について小林信彦は「1957年3月から6月の間」としているが、渡辺プロダクションの資料では「1955年」となっており、正確な時期についてはハナ肇も把握していなかった。山下勝利は「こうして昭和30年4月1日に『ハナ肇とキューバン・キャッツ』はスタートしたのである。クレージー・キャッツと改称するのは、3ヵ月ほど後のことだ」と記しており、軍司貞則もクレージーキャッツへの改名を1955年7月としているが、NHKアーカイブスの番組表検索では、1956年2月7日のNHK『ボンゴのひびき』に「ハナ・ハジメとキューバンキャッツ」名義で出演していたことが確認できる。
国家公務員の初任給が1万5483円の時代、渡辺プロダクションはキューバン・キャッツのメンバーに月給30万円を保証していた。
結成時のメンバー
- ハナ肇(ドラム)
- 犬塚弘(ベース)
- 萩原哲晶(クラリネット)
- 橋本光雄(ピアノ)
- 稲垣次郎(テナーサックス) - 稲垣は谷啓や植木等の参加と入れ違うように脱退し柴田昌彦に交替したとの資料もあるが、『新撰 芸能人物事典 明治~平成』では初代テナーサックス奏者を柴田としている他、山下勝利も発足時のメンバーの一人に柴田を挙げており、稲垣を含めていない。
- 南晴子(ヴォーカル)
- 筑波礼子(ヴォーカル) - ミュージカル女優島田歌穂の母
脚注
注釈
出典



