毛利 匡邦(もうり まさくに)は、長門国清末藩4代藩主。
生涯
宝暦11年(1761年)10月2日、第3代藩主・毛利政苗の七男として江戸で生まれる。兄たちが次々と早世したため、宝暦13年(1763年)2月に世子となり、安永4年(1775年)7月29日の父の隠居で家督を継いだ。12月に従五位下、讃岐守に叙任している。
藩政においては天明7年(1787年)に藩校・育英館を創設し、民政や人材登用など、様々な藩政改革を行なったが、この改革が逆に財政悪化を招き、遂には改革反対派の家臣と対立する有様となった。
このような中で、長男・匡民の早世により、文化15年(1818年)3月4日、養子の政明に家督を譲って隠居したが、その政明がすぐに死去したため、政明の養子・元世を婿養子として跡を継がせた。
天保3年(1832年)10月7日に江戸で死去した。享年72。
系譜
- 父:毛利政苗(1718-1781)
- 母:妙心院 - 平井氏
- 正室:長子 - 毛利重就の娘
- 継室:慈明院(?-1796) - 吉田良倶の娘
- 長女:某(?-1796)
- 継々室:寂照院(1777-1835) - 日野資矩の養女
- 長男:毛利匡民(1800-1817)
- 側室:木村氏
- 次女:章子(1803-1854) - 毛利元義養女、毛利元世正室
- 三女:光子(1806-1821)
- 次男:毛利時亮(1809-1816)
- 三男:予三郎(1815-1817)
- 養子
- 男子:毛利政明(1790-1818) - 増山正賢の次男




